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地獄論
赤く燃える灼熱の長い長い道が続いている。
その道には隆起した不安定な丘があったり、予期せぬ大きな穴があったりする。
道は永遠と続く道で、その地には煮え滾った溶岩が流れ、その道を幾多の人が、様々な人種が、男女が、同じ方向に向かって歩いている。
いや、歩いている、という表現はおかしいかもしれない。
走っている者、立ち止っている者、丘に登っている者、穴に足を捕られている者、それぞれがいる。
そして彼等は皆、何も身に着けてはいない。キレイな洋服も、流行のブランド品も、高価な靴も、清楚な下着も、派手な化粧も、美白の肌も。
彼等は丸裸にされ、全身の皮膚を削がれた状態。
誰もが皆、同じ。
筋繊維が露わになった彼等は、地のそれより赤く、誰が誰か区別すらままならない。
各云う俺もその中の一人。
そんな俺達が赤く燃える灼熱の長い長い道を進んでいる。
その中の一人が言った。
「アイツはいいよネ、小高い丘の上で、アタシ達は煮え滾った溶岩に首まで浸かってるというのに。」
また別の一人が言った。
「オレはもうダメだ。穴から足が抜けないんだ。嗚呼、オレの事はほっといて皆行っちまう。」
また別の一人が言った。
「此処まではあの溶岩は届かないだろう。ははは、皆もがいてる、もがいてる。俺様は丘の上で幸せだ、他の奴等は惨めだねえ。」
空は常に赤黒い雲に覆われ、建物も何も無い。
只、道には隆起した不安定な丘があったり、予期せぬ大きな穴があったりするだけ。
道は永遠と続く道で、その地には煮え滾った溶岩が流れ、その道を幾多の人が、様々な人種が、男女が、同じ方向に向かって歩いている。
時折、少し冷たい風が流れる。どこからとも無く、ほんの少し。
こんな処だから、煮え滾る溶岩で空気ですら恐ろしく熱いから、その風さえ、気持ち良い。
或る一人が言った。
「この風はどこから来るんだ?もっと風の来る方へ行こう。こんな処よりもっと涼しい処へ。」
或る一人が言った。
「おいオマエ、そこどけよ。オマエのせいで俺に風が当たらないだろ。邪魔なんだよ。」
或る一人が言った。
「こんな風が少し吹いたって、俺たちのいる処が変わるわけじゃない。単なる一時の幸せに喜ぶなよ。」
或る一人が言った。
「この丘の上でいると、格別この風も気持ち良いな。ほらほらお前等も此処まで上がってきて涼みなよ、ははは。」
俺は流れてくる風の方に顔を向けて、少し幸せだと思った。ほんの少しだけだけど。
俺はどれくらいこの道を歩いてきたのだろう。
随分歩いた気もするし、大して歩いた気もしない。なんだか不思議な気持ちだ。
何が不思議かって、歩いた距離の不確かさもあるが、何よりこの環境への自分の感覚。
初め、たぶんずっと前、俺は此処にいることが嫌だった。今でも多少嫌な面はあるが、前ほどではない。いつ終わるかわからない道のりだし、なんせこの灼熱の道だから、嫌になるのも無理は無い。だが、以前よりは少しマシになった。熱さに慣れたというのか、それとも感覚が鈍ったのか。只、環境自体は何も変わっていないのだから、自分がなにかしら変わったという事だけが理解できる。そういう不思議な感覚。
ある時、一人のヤツが俺に話しかけてきた。そいつはなんだかニヤニヤしたヤツで、自分はいろいろな奴等を見てきたと、ぺちゃぺちゃとやたら喋った。
「少し前にさ、3階くらいの高さの丘の上にいたあのへらへらしたヤツ、見ただろ。 アイツさ、この前丘の上で踊ってて、調子に乗りすぎてさ。足滑らせて下に落ちちゃったんだよ、へへへ。 それでさ、そん時落ちた位置が悪かったのか頭打ってさ、すげえ血ィ出して、もう気がふれたみたいになっちゃって。 それにこの煮えた溶岩の熱さも今まで知らなかったわけじゃん、もうもがいて、もがいて必死よ。 で、その必死さで、今までいた丘の上に戻ろうとするんだけど、 この熱さのせいの湿気かなにかで丘の岩肌はヌルヌルなわけ。 登っては滑り、また登っては滑りで。ありゃ最悪だわ、へへへ。いやはや、ああは成りたくないねえ。最悪。 おまえも気をつけろよ、高見に登るなら登ったで足元に気をつけてな。地で転ぶのとわけが違うぜ。 落ちれば大ケガさ。じゃあな。」
そいつはそう話すと、とっとと足早に消えて行った。
少しして、また別のヤツが話しかけてきた。
「さっきオマエと話してたヤツとオマエってどういう関係なの? アイツってさ、誰かれの失敗をぺらぺら喋り捲くってるからさ、皆から嫌われてるんだ。 だから誰もアイツとは付き合いたくないらしいぜ。あ、オマエ、アイツに何か話した? ああ、話さなくて正解だよ。オマエが話したこと、アイツまた他のヤツに笑い話として話すからな。 アイツも可愛そうなヤツだよ、あんな事ばっかしてるから誰からも相手にされなくなるんだよ。 ま、ああは成りたくないな、最悪。そんじゃあな。」
赤く続く灼熱の道。空はどこまでもどこまでも赤黒い雲に覆われて。
俺は少し疲れたので、少し歩くのを止めた。
いつからだろう。立ち止る事ができるようになったのは。昔はなんだかいつも忙しなく、歩いていた気がする。周りが急ぐから、自分だけ逸れたくないから、一人になるのが嫌だったから。
だけど、今は少し違ってきた。あの赤黒く続く雲の空を、立ち止って、時折眺める。
「あの雲は、なんだか鳥に似ているなあ。」
俺は流れていくあの雲を見上げて、少し楽しいと思った。ほんの少しだけだけど。
言い忘れていた事がある。この赤く燃える灼熱の長い長い道のルール。
それは、年を取った者の方が、より道の先にいる事。(時折、その者を追い越して、先に行く者もいるのだが。)俺はあまり目が良いわけでもないので、あまり先の人は見えない。ぼんやりと、辛うじて動いているのがわかる程度である。
目の前に、この赤く続く道の、俺の目の前に、人の顔があった。
男か、女か、わからない。服も皮膚も髪の毛もないのだから、判断するのさえ困難だ。
只その人は、この道の穴に落ち込んでいた。性格には腰の辺りまで、穴の中に沈んでいた。後ろに反り返って、溶岩の上に顔らしきと手だけを出して、あの赤黒い空に手を伸ばすように。
もがいてはいなかった。
只その人の手にはたくさんの切り傷があった。その穴から出ようと必死だった時があったのだろう。その時の傷だろうか?
だが、今はもう、只空に手を伸ばしているだけであった。
その人と俺は少し話した。
「大丈夫ですか?長く抜けられないのですか?抜け出すのを手伝いましょうか?」
その人は言った。
「あなたの力では私を引き出せないわ。それに例えこの穴から出ても、私また次の別の穴に落ち込んでしまうもの。 もうこんな事の繰り返し、私、いいかげん疲れたの。」
俺は言った。
「そう言わず、少しだけ頑張って、そんなに深い穴ではないでしょう。」
するとその人は目を見開いて、言った。
「あなたに私の何がわかると言うの?今会ったばかりなのに。私が歩いてきた道のりも知らないで、私がどれだけ多くの穴に落ちてきて、傷ついて、這い上がって、それでもまた落ちて、必死で、必死で、這い上がって、それでもまたこんな状態の私に向かって「頑張って」ですって。あなた何様のつもり? イライラするから私の前から早く消えて、お願い消えてちょうだい。」
俺は何も言えず、只立ち尽くすだけだった。
そんな中、遥か遠くからだろうか、それとも本当は近くだろうか、誰かが、この人の方に歩いてきた。俺にはその人が皆が進む進行方向の先の方から来たように見えた。
その人は、何も言わず、この穴に落ちた人を抱きしめた。
ぎゅっと、幾分細くなったその両の腕で、穴の中の人を抱きしめた。
この赤く燃える灼熱の長い長い道のルール。それは、年を取った者の方が、より道の先にいる事。
穴の中の人は、顔をくしゃくしゃにして、子供のように泣きながら、言った。
「お母さん。」
今日は、幾分気持ちの良い日だ。あのどんよりとした赤黒い空も、なんとなく穏やかに見える。
もしかしたら、ゴールが近いからかと、少し考えたりもした。
俺は、少し楽になった。なぜなら、俺はこの道の歩き方が少しわかってきたから。
この道は平坦ではない。所々に穴が開いている。その穴は大きかったり、小さかったり、深かったり、浅かったり。赤く煮え滾る溶岩で隠されてはいるものの、目を凝らせば、その穴が見えるようになった。それは過去の経験や、失敗、同じような穴に落ちた人、穴から出た人を見てきたせいもあるだろう。俺は穴に落ちないよう、極力穴の方に近づかないよう、うまく、うまく歩けるようになっていた。
俺は、少し楽になった。この永遠と続く道の歩き方が少しわかってきたから。
誰かが俺を呼んでいる。
遠くから聞こえるような、すぐ隣で耳に囁くような。
俺は少し眠っていた。いや、少しかどうかも定かではない。
目を開くと、目の前に人がいた。
そいつは人だった。俺の思う人間であった。
なぜならそいつは人の顔を、そいつにはちゃんとした皮膚がある顔を持っていたから。
身には薄い布きれを着て、灼熱の溶岩の中で、顔色一つ変えてなかった。
髭があるから、たぶん男だろう。だが、醸し出す雰囲気から女とも見える。只、そいつは「人」だった。
そいつは俺にこう言った。
「私が右の指を一つ鳴らすと、一つ世界を騙す事になる。二つ鳴らすと、二つ世界に嘘が生まれる。 だがそれは悪い嘘じゃない。人を幸せにするためのものだ。 試してみるか?」
俺は何も答えることができなかった。
するとそいつは右の指を一回「パチン」と鳴らした。
俺の身体に皮膚が張り付いていた。他の皆にも。男か女かもわかるようになった。皆、丸裸だった。性別があり、皮膚の色があり、表情があり、いやらしさがあった。美しい顔のもの、均整のとれた身体のもの、長く黒い髪のもの、骨と皮だけのもの、ぶくぶくと醜く太ったもの、様々。
そいつは右の指をもう一回「パチン」と鳴らした。
俺は服を着ていた。社会人が着るスウツを着て、立派な腕時計をしていた。他の皆も、それぞれが、様々な服を着ていた。男達は少したくましく、知的に。女達は色取り鮮やかに、華やかに。いやらしさを隠して、着飾ることで人を欺いて、自分を美化して。男の中にはそれで自らの優雅さを、地位を見せ付けるものもいた。女の中には駈引きのドレスを纏い、化粧をして、生まれ持った顔の皮膚を誤魔化すものもいた。
そいつは右の指をもう一回「パチン」と鳴らした。
今度は景色が現れた。空があった。山があった。海も川もあった。鳥も犬も魚も昆虫も、自然があった。空は青く、山には木々が育ち、海や川には癒しの音が流れた。あの灼熱の溶岩も、赤黒い空の雲ももうなかった。空気も風も穏やかに、朝と昼と夕と夜が順に訪れた。
そいつは右の指をもう一回だけ「パチン」と鳴らした。
建物や物が現れた。古くのもの、新しいもの、商店や頂上の見えないビル。車も船舶も大型の飛行機も宝石もテレビも電話もプラスチックの皿も生理用品も精巧な玩具も、なんでも。
そしてあの長く続く赤い道が消え、たくさんのきれいな道や、複雑な曲がりくねった道、誰も通らないような暗い道、様々な方向に多種の道が伸びてきて、結局俺は、今まで見えていた太い一本の道がわからなくなってしまった。
そいつは言った。
「これがおまえの望む世界か?」
俺は
「違うのか、正しいのか、わからない。」と答えた。
そいつは
「何が正しくて、何が間違いかは、オマエの中にある。それをおまえがいつか必ず辿り着く終着点にまでに気づけば、それがおまえの勝ちだ。」
そう言って、俺に一冊の分厚い古びた本を渡した。
「読んでみろ。」
そいつがそう言うので俺はその分厚い古びた本を開いてみた。中には文字がびっしりと書かれてあった。
だが、それは、俺の知っている言語で書かれた本であったが、なぜだか俺にはわからない。声に出して読んでみる事はできるが、意味がわからない。言葉の意味はわかるのだが、理解できない。俺はその文字の羅列を書いた本を何度も何度も読んでみた。
しかし何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、何度読んでも、
言葉が並んでいるだけにしか、思わなかった。
どれくらいの時が流れたのか、長い間だったろうか、それともほんの一瞬だったろうか。
そいつが俺に何か言った。何か言ったのはわかった。何か言ったのはわかったが、それを俺は理解できなかった。
そいつは表情一つ、顔色一つ変えなかったが、俺には少し、寂しいような、哀しいような、そんな風に見えた。
「パチン」「パチン」「パチン」「パチン」
そいつは左手の指を鳴らした。近くにいたはずなのに、遥か遠くから、その音は聞こえた。
俺は少し眠っていた。いや、少しかどうかも定かではない。
目を開くと、目の前に大勢の人がいた。
そしてまた赤く燃える灼熱の長い長い道が続いていた。
その道には隆起した不安定な丘があったり、予期せぬ大きな穴があったり、
道は永遠と続く道で、その地には煮え滾った溶岩が流れ、その道を幾多の人が、様々な人種が、男女が、同じ方向に向かって歩いていた。
そして彼等は皆、何も身に着けてはいなかった。キレイな洋服も、流行のブランド品も、高価な靴も、清楚な下着も、派手な化粧も、美白の肌も。
彼等は丸裸にされ、全身の皮膚を削がれた状態。
誰もが皆、同じ。
筋繊維が露わになった彼等は、地のそれより赤く、誰が誰か区別すらままならない。
各云う俺もその中の一人。
そんな俺達が赤く燃える灼熱の長い長い道を、また歩いている。
取り憑かれたように、同じ方向に向かって、只、歩いている。 |
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