ASP根底要素



「神は子羊に与えた 
 骨と血と悩みと意志
 全ての元凶はそれらが引き起こす
 故に 我々は死ぬまで解放されない
 神が与えた傲慢な束縛
 神が与えた完璧な世界
 群れから離れた子羊は もう戻らない
 神はそれを大罪と言う」  
ASPIRIN SINERS ”REQUIEM OF IRRESOLUTE SKULLS”より抜粋


神が我々人間に与えたモノ

「骨」
言わずと知れた、人の身体の骨格を意味する。それはこの世に生を受け、誕生した時より日々蓄積され、最期のその日まで残存する固定的なもの。転じて、人を人として成り立たせ、人の根本、人の中に宿る生まれ持っての精神の核、芯をも意味する。またそれは、人が人としてなる遥か以前、この地に生命が誕生した時より続く歴史の根、即ち「受け継がれし生命の骨根(ルーツ)」でもある。古くはまだ骨格形成の無いアメーバから何億年もの朝夜の繰り返しにより、骨格を持った魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と進化してきた、その堆積。骨とは我々生命の歴史、その記憶の蓄積、生きてきた道を書き記した「根」である。

「血」
人の身体の内を流るる、赤い流動物。酸素や様々な栄養素を身体の隅々まで運び、日々休まず活動を続け、古くなったものは排出され、また新たに造りだされる流動的なもの。そして新鮮な赤き血が流れることにより、我々は生命活動を維持できる。それは精神の流れも同じ。故に血は、人を人として成り立たせ、日々の流れてゆく思いや感情、止まること無い精神の流れ、熱をも意味する。流れ出て行き、また造られる、生からその最期の日まで永遠と休むことなく繰り返される流動。血とは我々生命の維持媒体、流動的な情、熱、今という自分を感じる「流」である。

「悩み」
人の精神の内でとぐろを巻いている蛇。複雑な模様のモノや、鮮やかな色合いのモノ、また保護色に守られ直ぐには認識できないモノ等。そんな蛇が一体何匹いるのだろうか?ズルズルと這いずり回ったり、ウネウネと滑った皮膚を擦り付けたり、別の蛇と捩れたり、と。それらは不意に心に噛み付いたり、知らぬ間に巻き付いて、じわじわと心を締め上げたりするのである。悩みとは、結局、心の中に潜む「蛇」なのである。

「意志」
先に話した悩みが心の中にあるのに対し、意志とは頭の中にあるものである。また、意志は「炎」。小さく仄かに揺れるようなものもあれば、ボウボウと燃え上がるものもある。色もまた様々。太陽のように紅く輝くものもあれば、静かに揺らめく蒼いもの、やさしく穏やかな黄のものなどがある。意志とは炎であり、自己の集中により、無限の強さを秘めた力の原動力である。


以上を踏まえた上で、骨は人がその人生にしっかり立つための軸であり、血はその肉体が今、生きている証であり、悩みは自分の人生、生き方に疑問を持つことであり、意志はその疑問を解決するために思考するためのものである、と言えよう。
また、「骨」と「血」は人の外殼、身体そのものを司り、「悩み」と「意志」は人の内面、内なる精神を司ると二つに分別することもできる。
骨を造り上げるには栄養となるもの、今を流れる血、それが不可欠である。
今を流れる血にはこれまで蓄積された骨の形成、それが不可欠である。
要するに、その人の人生を、その芯をしっかりさせるためには、今という時の流れをどう生きるかが必要だということ。今という流れの中で、より良く生きるには、これまで築いた芯となる人生が必要だということ。過去という骨の上に今があり、今を流れる血がある故、過去という骨ができる。どちらも切り離すことができない、相互がうまく複雑に絡み合っているのである。

悩みを解決させるには意志、それが不可欠である。
その意志の発生により生まれる悩み、それが不可欠である。
要するに、人生の中で訪れる幾多の悩み、苦しみだが、それだけでは人は前に進めない。それを超えて先を見たいのであれば、それを乗り越える自らの意志の力が必要だということ。そして、意志を持つことにより、新たな悩み、人生の中の疑問にぶつかるのだ。新たな悩みの創造は新たな意志、力の誕生に必要だということ。悩みがあるから意志が生まれ、意志があるから悩みが生まれる。どちらも切り離すことができない、相互がうまく複雑に絡み合っているのである。


上記の四要素は一つ一つ個別に見ることもできるが、それぞれが繋がっているとも解釈できる。詳しく話すと、人の心には誰しも大小様々な隙間があり、その隙間に静かに、また突然に蛇が忍び込んでくる。人より忌み嫌われる蛇は明るい場所を嫌うため、人はその精神に自ら、または他者の力によって火を灯す。蛇を追い払うため燃え上がった意志の炎は、生きている証の流れる血に反映、感情、熱に変換され、自らの歴史、経験により蓄積された骨というその人の人生の軸の内容により、その後のその人の明暗が決まるという仕組み、流れである。それぞれが繋がり、切り離すことができない、相互がうまく複雑に絡み合っているのである。言い換えれば、どれか一つが欠如しても、流れは成り立たないのである。
 

人が人として成りたったとき生まれた「骨」と「血」と「悩み」と「意志」
人が人として最期のときまで引きずって逝く「根」と「流」と「蛇」と「炎」
それは「人」が望んだものだろうか?「人」が望む以前にあったものだろうか?
我々に与えたのは「神」、我々を創りだしたのも「神」
これが神が与えた傲慢な束縛
逃げるに逃げれない、人として生きるための束縛である。
そしてこれが神が与えた完璧な世界
壊したくても壊せない、人が生かされている世界である。


「神は子羊に与えた
 骨と血と悩みと意志
 全ての元凶はそれらが引き起こす
 故に 我々は死ぬまで解放されない
 神が与えた傲慢な束縛
 神が与えた完璧な世界
 群れから離れた子羊は もう戻らない
 神はそれを大罪と言う」


群れから離れた子羊は もう戻らない。
その束縛から離れた子羊は もう戻らない。
その世界から離れた子羊は もう戻らない。

戻らない、戻ラない、戻ラなイ、もどラなイ、モどラなイ、モどラナイ、モドラナイ・・・。

もう、戻らないこと。

それを「解放」と呼ぶか、「逃避」と呼ぶか、何れにせよ、神はそれを「大罪」と呼ぶのである。