ASP思想概念



人は多かれ少なかれ生きて逝くうえで、なんらかの「罪」や「罰」を背負って生きていかなければならない。
それを深く感じる人もいれば、反対に飄々と何も感じず生きる人もいる。
建前上、人は「平等」だ、と世間一般では思われているがそれは優等生の考え。
人の心には必ず「闇」が存在する。
嫌悪、退廃、猥褻、怠惰、欺瞞、嫉妬、愛欲…数えれば切りが無い。
人は平等だと銘打つなら、それらもまた、平等でなければならない。
要するにそれが成り立つのであれば、それはもう世間で言う神や仏の域だと思う。
ただ、我々は各々が一人の人間である。神ではない。各々が多種の罪を犯し、何らかの罰を受ける。


一つ仮定してみた。
「神や仏など存在するのであろうか?」

俺の答えは、「YES」
ただ、人が祈る、西遊記のドラマに出てた雲の上まである背丈の仏や髭面の導きの神ではない。
もっと上、宇宙の、そのまた向こうの、時さえ越えた処にいる、人とは形を成さない それ。
便宜上、俺はそれを「神」と呼ぶ。
「神」を人と同じと偶像化することが、そもそもの人の奢り、要するに第一の罪。
ただ世間一般に思われているよう、信じられているよう、どの神も嘘をつかない。
これは俺も同意。


ここで、また仮定。
「神」は本当の事を、その第一の子に伝えたであろう。
それは「真実」。そこで生まれたのが「宗教」。世界に数多くあるそれ。
人が書いた、生きていく上の正しい教え。優等生の教え。
「神」は嘘をつかない。ありのまま、言い換えれば「現実」そのものを伝えた。
故に「神」。
伝えられたのは「人」。
人はそれを「運命」などと呼んでる。


ここで 一つ、俺の中に疑問が生まれる。
人は良くも悪くも「嘘」をつく。それは或る時は自分の私利私欲のため人を欺き騙すものであったり、或る時は愛しい何かを守るやさしい嘘であったり…。
それは仕方ない。生きていく上、生活をする上、誰かと関わる上。真実ばかりを伝えれば、そこに弊害ができる。
人は嘘をつく。それは俺も同じ。
各云う おまえも。

では、神の教えを受けた第一の子は どうであろうか?
神は嘘をつかない。人は嘘をつく。
俺の思う第一の子は 正直な良い人であったであろう。想像だが その人は間違っても私利私欲のための嘘はつかなかったはずだ。では、愛しい何かを守るためのやさしい嘘はどうだろうか?
もし俺やおまえが仮にその第一の子であったならば…?
おまえのとなりの愛すべき何かに、守るべき誰かに 
神が教えた「現実」という真実を嘘偽りなく伝えるだろうか?


神は人に一つ、特殊な能力を与えた。
それが「やさしさ」。
自分のための、誰かのための。
それは神が与えた最後の救いのようなもの。

神は真実を伝えた。
第一の子はやさしい嘘をついた。
第一の子は 神の詞のそのほとんどを正しく聞き、それを後に伝えた。

ただ一つを除いて。


神は伝えた。この世界がなんたるかを。この世界がどこにあるかを。どこに向かうかを。

第一の子はやさしかった。真実を伝える事もできた。
だが、しなかった。やさしい嘘をついた。
後の人に夢や希望を絶やさぬため。愛すべき誰かを守るため…。




神は第一の子に伝えた。


「おまえが生きる此処、此処が即ち地獄ぞ。故に悩み苦しむのだ。」




第一の子は やさしかった。

では、おまえならどうだろうか?
では 俺なら…。


これが俺の中の「ASP」の始まり。